雑事に追われて一月ほど遠ざかっていたので、どう書きだしていいのやら、躊躇してしまっているが、ここは前回に続いて、失われ行くものへの哀愁というか、妙に古い物を懐かしむ感情に焦点をあてて考えてみた。11月15日公開の『わたしは光をにぎっている』がそれにあたる。

 話は、早くに両親を亡くした主人公が祖母と細々と切り盛りしていた民宿を、祖母の入院を期にたたんで東京に出てくるところから始まる。頼った父の知り合いの男は銭湯を経営するも、時代の勢いに押されて再開発の波にもまれ、やる気のないまま運営しているような状態。何度か職を探した彼女は都会の目まぐるしさに翻弄され、結局、その潰れかけの銭湯を手伝うことになる……。というもの。

 取り立てて目新しいトピックであるわけでもなく、ノスタルジックなトーンで年配の観客にファンタジーを見せようというわけでもなく、話は淡々と展開していく。台詞の量も押さえられて、いつもの作品に当たり前の場面描写の代役的な言葉は全く見受けられない。表情豊かに動きをつけて語り合う演劇に慣れてしまって、それが日常当たり前のことと錯覚しているが、現に生活している自分たちは振り返ってみると、それほど感情を顔に表すことはない。むしろ、内に秘めた気持ちを押し殺して表には極力出さないように努力しているくらいだ。また、家族との会話に饒舌なシーンなんて滅多にない。

 つまり、普通の生活をそのまま映し取るなら、みんなそんなには喋り続けていないはずなのだ。また、子どもじゃあるまいし、喜怒哀楽をストレートに顔に出す人なんて、居るわけないはずだ。

 だから、最初妙に違和感を持って、淡々とし過ぎる展開にムムゥと首をかしげていたが、後半には背筋を伸ばして直視していた。そう、日常の当たり前の風景を、映画館に来ている時点で見失って、舞台劇さながらの脚色を期待してしまっていたのだ。……そういうことか。と気づかされる。

 地味だけど、もっと高評価を得て当然の良作。その時その時のそれぞれの気持ちは周辺の情景や小道具でキッチリ補完されている。懐かしい光景が失われ行くことを嘆いたり、批判したりせずに時代のうねりに身をまかせて生活していく人びとを見事に描き出している。

 なくなろうとする銭湯の話だと『湯を沸かすほどの熱い愛』ってことになるが、中国物なら『こころの湯』。テーマは酷似するが、作り方はまるで違う。

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著者

fat mustache

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