瀬々敬久監督の『楽園』を観てきた……。ベストセラー作家、吉田修一氏の短編集「犯罪小説集」を原作に、その中の2編、「青田Y字路」と「万屋善次郎」を架空の一つの場所にまとめ、両方の事件に関係する人物を配して、繋ぎ合わせたものだ。

 吉田氏の2編の短編はそれぞれ誰の記憶にも残る事件をモチーフにしている。ひとつは「栃木小1女児殺害事件」もうひとつは「山口連続殺人放火事件」。前者については、いまだに真犯人かどうか、その真偽は疑わしく、周辺で起きているいくつかの未解決の女児殺害事件や失踪事件との関わりが懸念され、足利事件にも酷似する状況が浮かび上がる。後者については、犯人の妄想性障害の有無だけがクローズアップされ、村八分に至った経緯や、その実態に触れることはほとんどなかった。

 そんな生々しい事件をあえて材料にしたのは何だろう。しばし、考えを巡らせたが、私なりの勝手な解釈で整理してみることにした。

 要は他者とのコミュニケーションに苦慮する現代人が、ふと、もたれかかりたくなる家族のような繋がり。何も言わなくても分かってもらえる気持ち、くじけそうな自分になんの追い打ちもかけずに見守ってくれる暖かさ。疲れた時には相手に気遣いながら、言葉を選んで説明する煩わしさにウンザリして、人との関わりを避けようとしてしまうが、目まぐるしく歩みを進める社会では立ち止まることも許されない。ついつい無理してついて行こうとすると体調に異変が……。

 因襲にまみれたムラ社会の光の部分にだけ心を奪われ、ああいうふうに助けてもらえたらなぁ……と憧憬するあまり、常に誰かに覗かれているような周囲の目、受け入れてもらおうと道化を演じる情けなさ、考えるいとまも与えられないで奔走する伝統行事。そういった負の要素。封建的な慣習の色濃く残る部分に翻弄される日常……。それを見逃しているのだ。

 そういうなかで、ひとつ歯車が狂うと思いもかけない大事件が……。

 世の中は甘くない。自己確立をおろそかにした者には生きやすい場所はどこにもないのだ。つまり、自分はどうありたいのか? どう生きたいのか? どうしたいのか? 常々問いかけることが生きるっていうことなのだ。生物として息をしているだけでは生存しているとは言えない。どうしたら良いのかを問い続けること、答えを求めるのではなく、思い続けることがトンでもなくデカい頭脳を与えられた人間の宿命なのだ。

 つまり楽園は与えられるものでもなければ、追放されるものでもない。楽園は私が作ろうとするもの。理想を抱いて努力する過程が楽園なのだ。何を訳分からんことを書いているのか、吉田氏原作の前作『怒り』を併せて観てみると、なんとなくそんな考えが……。これはオムニバス三部作の様相をとるが、それぞれの青年に凶悪殺人犯では? と疑念が生まれるなかで共通する心の動き。それこそ両作に通ずるテーマでは……。

 ナガさんという方が『楽園』について詳しい解説をされてます。興味のある方は是非、ご覧になってください。