ちょっと前に『ハウス・ジャック・ビルト』を観てきた。2週間ほどで公開が終了したので、もう一度と思っていたが叶いそうもない……。なんて嘆いていたら、9月にやる所を発見して、一転ウキウキした気持ちでキーボードを叩いている。このトンデモ映画をノーカットで上映するなんて日本の映画界も勇気あるなぁ…と妙な感心をしてしまっているが、細部が少しでも欠けると、監督の意図するところとは違ったものになってしまうだろうから、これは大正解だと言える。

映画館でもらったポストカード

  このラース・フォン・トリアーの新作はシリアル・キラーを描いたものなのだが、具体的なモデルがあるわけではなく、監督自身がインタヴューで「ジャックは僕の一部だ」と語っているように自らの内に潜在する狂気に焦点を当てているように思う。彼のように極端な内向性を持たないので、定かなことは分からないが、自分の中にも周りの人を生身の人間と認識できない瞬間があるかも知れない。

  接触度の希薄な人たちを見る時、ありとあらゆる場面で相手の心情にまで慮って行動していたら、止めどもなく神経をすり減らして、疲れ果ててしまう。時には、単なる物体ぐらいに見過ごして次の行動に移ることが普通だ。

  だとしたら、シリアル・キラーのサイコパス的な冷酷・無慈悲・尊大・良心の欠如・罪悪感の薄さなどのパーソナリティは、ある意味、誰もが持っている気質のひとつかも知れないのだ。あるいは凶悪犯罪を犯す人たちの持つ、強い殺意とか暴力性というのも、たまたま自分は押さえられているだけで、常々、心の中に慈愛や憐憫の情と併存しているのかも知れない。

  だから、こういった犯罪ものを観たいと欲するのだろう。自分の中に全く存在しない感情だったら、興味を持つはずもない。そして、時として暴力性がもっとも強い感情として頭を擡げる瞬間にハッとすることを経験すると、なんとか自分を納得させる説明を求めて、普段は見向きもしない犯罪心理学の本に手を出そうとしたりする。

  それを映画にすると、『三度目の殺人』みたいな犯罪者への接見場面にムムッと首を伸ばして見ることになるねぇ……。ただ、その内容に鬼気迫る切迫感が画面から迸るものじゃないと、なかなか納得はさせられない。是枝監督のこの作品はキャスティングが豪華過ぎてスンナリ入れ込めなかったかナァ……。

  その点、『カポーティ』には接見室だけではない魅力がいっぱい見つけられる。若くして名声を獲得したトルーマン・カポーティであったが、創作の行き詰まりを感じ始めた頃、新聞の片隅にカンザス州で起きた一家惨殺事件の記事を見つける。もともとゲイで精神病理的に繊細な気質のカポーティには一からの取材は難しく、幼馴染で『アラバマ物語』の女性作家ハーパー・リーに助けてもらいながらの取材旅行となる。

  ドキュメンタリー・ノベルに仕上げたいという欲求を隠して、犯人の心情を探ろうと試みる様子は、上梓されるこれら犯罪物の著作に共通する問題を提起する。それらは決して犯罪者に寄り添った視点だけで構成されるのではなく、あくまて作家本人の創作意欲を惹起させる素材としてあっただけで、当事者にとって、本当の癒やしをもたらすものにはならないってことを丹念な映像で描ききっているのだ。

  そうして完成した『冷血』は一大センセーションを巻き起こすが、その後、カポーティの活動は低調となり、さまざまな依存症に苦しみながら早世することになる。

  犯人側の狡知に振り回される起死回生の色気を持ったジャーナリストの顛末を扱っているのが『トゥルー・ストーリー』。残念ながらストリーミングだけですワ。