遅ればせながら『ブラック・クランズマン』を観てきた。例の刈谷日劇で。こともあろうに黒人刑事がKKKに入団して潜入捜査なんて、どう考えてもありっこないと思わせる内容なのだが、当の本人、ロン・ストールワースが2014年に上梓した「ブラック・クランズマン」をもとに製作された実話ベースの伝記犯罪映画ということになっているらしい。当初は『ゲット・アウト』のジョーダン・ピール監督が製作に関与することが決まっていたらしいが、黒人監督の大御所であるスパイク・リーがメガホンを取ることになり、社会風刺を織り交ぜた娯楽性の高い作品に仕上げられた。

 私にとって、スパイク・リーと言えば、ともかく『ドゥ・ザ・ライト・シング』で受けた強烈な衝撃が忘れられない。ブルックリンを舞台に暴動の起こる瞬間を捉えたシーンは、そこに至る様々な問題の積み重ねに、どうにも改善の余地すら見つからない絶望感を抱かされ、解決のヒントすら見いだせない困惑の中で放たれる一投が全ての始まりにされてしまう……。

  ところが、次次作の『ジャングル・フィーバー』で受けた印象は若干違ってくる。すべての黒人が教育を受けられず、貧困にあえぎながら、明日への希望のない蟻地獄状態に居るのではなく、ミドルクラスの普通に憧れるような近代生活を満喫している家族を描いているのだ。ただし、その周辺にはとんでもない地獄が存在する。主役のウェズリー・スナイプスが皿を拭いているシーンに象徴される誰もが憧れる理想的家族、ジャンキーの兄は小遣い銭をせびりに母親を訪れる。そのサミュエル・L・ジャクソンの迫真の演技はカンヌ国際映画祭の助演賞を受賞しているが、何とも言えない哀愁が漂っている。

  これを観たとき、黒人社会が徐々に改善の方向に進む希望を抱いてしまったが、その後の彼の作品では必ずしも思い描いた未来に向かっているのではないことが描かれるようになったと思う。良くは分からないが、もっと穏やかな主張をしていたように思えたのが一転、先鋭的に訴えかけてくるようになったと感じてしまったのである。

  同じ思いをウォルター・モズリイにも感じてしまった……。イージー・ローリンズのシリーズで文壇デヴューした頃の彼は、もちろん私の勝手な思いだけれども、物静かで思慮深く、穏やかな口調で話す聡明な青年、というものだった。ロサンジェルスを舞台にしたこのシリーズは、ちょうどジェイムズ・エルロイの「暗黒のL.A.」4部作とは対照的だったのです。エルロイはホワイト・トラッシュから這い上がった伝説的人物。ろくな教育も受けられず、字も読めなかったと言われるほどです。かたやインテリ黒人、そして野卑な白人。正反対の二人が同じL.A.で繰り広げられる犯罪小説を綴る。その妙味につられて読みあさった時期がありました。

  ところが、9.11.の後に彼が記したエッセイ? 評論? 「放たれた火炎のあとで 君と話したい戦争・テロ・平和」を読んだとき、なんかチョット変わったなぁ。と感じてしまったのです。しばらく彼のエンタメ本に巡り合えなかった時だったので、すぐ飛びつきましたが、政治的見解を述べる姿には白人社会に立ち向かう挑戦的な文言が並べられていたように感じてしまっていたのです。

 まったく勝手な私の想像でしかありませんが、白人に接する機会が増えて、ある意味社会的地位を築き上げた彼らはセレブの世界で過ごすことになったのだろうが、その教養溢れるセレブたちの中に感じる違和感、親しくなって互いにホンネを交わすようになると、つい出てくる思いを垣間見て、感じることになる意識、それは福音主義キリスト教の倫理観と昔ながらの白人コミュニティに依拠する連帯感。名門大学のクラブの持つ結束力。

  けっして自分たちを心から受け入れようとはしない何かを感じ取っているからこそ、より力強く、戦闘的な言葉や表現が必要だと思っているのではないでしょうか。これこそ『ゲット・アウト』の真髄。一見、親しげに会話する白人たちに潜む何かしらを感じて恐怖するところから発想したものと共通する成功した黒人の抱く孤立感や喪失感ではないでしょうか。そういえば『ゲット・アウト』では日系人らしき人物が白人の中に紛れていたが、黒人の知識階級には有色人種である我々も同類と見なされているのでしょうか……。 

 『ブラック・クランズマン』もそういった視点で見直すと、主人公の代わりに潜入した白人がユダヤ人で、ともに差別される側だったりすることも、トランプ支持の鉄板バイブル・ベルトの白人と都市住民の溝がますます深くなることを予見させますなぁ。

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著者

fat mustache

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